整備は1月からはじまる
阪神甲子園球場といえば、プロ野球球団「阪神タイガース」のホームスタジアムであり、毎年春夏に高校球児の熱い戦いが繰り広げられるいわば“野球の聖地”。そんな場所を整備しているのが甲子園施設部のグラウンドキーパーだ。突然の土砂降りで中断され、再開も絶望的か…と思われた数々の試合を復活させてきた整備力の高さは、「神整備」とも呼ばれている。
しかし、私たちがテレビなどで見かける彼らの整備はほんの一部。本当の意味での整備は、毎年1月からはじまっているという。「オフシーズンの1月から2月末にかけて、内野のフィールド部分を約25cm前後、耕運機で畑のように掘り起こすんです。この作業はとても大切で、それが来年1年の状態を決めると言っても過言ではありません」。そう教えてくれたのは甲子園施設部の谷端祥壮さんだ。「阪神甲子園球場のグラウンドは“水もちのいい黒土”と“水はけの良い砂”をブレンドしてつくっているんです。なので、冬の時期にグラウンドをしっかりと掘り起こして撹拌して、1ヶ月半かけてゆっくりゆっくり固めていく。この作業によって下層は弾力があり、上層は適度な硬さのある良いグラウンドになるんです」。こうやってしっかりと土台づくりをしているからこそ突然の雨にも強く、水溜りができにくい良いグラウンドができあがるのだ。
一番大事なのは人の目と手
普段の整備についてはどうだろう。取材日は前夜に雨が降っていて、グラウンドがしっかりと水分を吸っている状態。「今日は上層の土の攪拌からスタートできましたが、7〜8月の晴れ間が続く日は、土が乾いてしまっているので散水からはじめる必要があったり。グラウンド状況と天候をみて、その日にできる“最良のグラウンド状態”にもっていきます」と谷端さん。グラウンドの水分量、そして天候の変化。屋外球場ゆえ、日々条件は変わるのだ。
気づけばグラウンドを攪拌機やローラ機、芝刈り機とたくさんのマシンが動き回っていた。「たくさん機械が出てますけど、整備で一番難しいのって実はトンボかけと散水なんです」と谷端さん。ピッチャーマウンドを頂点に勾配がとられているが、練習や試合でグラウンドを使うとあらゆるところに凸凹や不陸ができる。それを元の状態に戻すためにトンボで均していくが、ただ単に平らにするのではなく移動してしまった土を“元の位置に戻す”のだという。特にスライディングすることの多いベース周りは土が一番移動してしまう場所。勾配の微妙な変化をトンボから伝わる感覚と目視で感じ取れるようになるには2、3年かかるそうだ。
野球の聖地を守り抜く
プロが使うグラウンド整備を任されていることについて聞くと、「阪神甲子園球場は野球の聖地であり、僕にとっても憧れの場所。日本一のグラウンドとして絶対守り抜いてやる!という気持ちで日々整備しています」と谷端さん。「実は小学4年生から専門学校時代まで10年くらい野球をしていたんです。だから阪神甲子園球場のマウンドってとても特別で。一度はここで投げてみたかったな…と思ったこともありますが、今は整備で貢献できたらいいなと思っています。毎日憧れの場所で働けるなんて、やりがいしかありませんよ」と答えてくれた。
取材を終えて球場の外に出ると、ユニフォームを身に纏った野球ファンがナイター観戦に備えて続々と集まっていた。夕方からの天気予報は“曇り時々雨”。でもきっと大丈夫。阪神園芸のグラウンドキーパーがいるんだから。
甲子園での経験と技術を活かす
阪神甲子園球場で培われた整備技術はソトでも生かされている。
「高校や大学、社会人の野球場やグラウンドの整備をしています。姫路球場や高砂市野球場もそうですね。特に僕は学校を担当させてもらうことが多くて。今日作業に入っているのも高校野球部が使うグラウンドです」。そう答えてくれたのは、スポーツ施設部の萬浪広士さんだ。阪神甲子園球場のグラウンドキーパーとして経験を積み、今では関西地区を中心に数多くの学校のグラウンド整備を任されている。
「今日の現場は内野を黒土にしたいというオーダー。土の表面2cmを削り取って、その分黒土を敷き均す作業です。ここでも甲子園と同じように勾配をつくることで水を溜めずにうまく流れるように整備するんですが、逆に勾配をつけすぎると雨が降った時に黒土が水で流されてしまうんです。そうならないよう、ちょうど良い加減を探しながらつくるんですが、現場によって状況・環境が全く異なるので、そこは僕らの腕の見せ所ですね」と笑う。グラウンドの勾配や水の流れ方、普段どんな風に使っているのか、さまざまなポイントに留意しながら、ベストな状態を探っていく作業は勘と経験が必要だろう。
「やはり阪神園芸=阪神甲子園球場ですから。“プロの球場を整備してきただけあるね”と言ってもらえる良い仕事をしたいです」。そう語る横顔はなんだか誇らしげだった。
甲子園のシンボルを以前の姿に
阪神甲子園球場のシンボルといえば、球場をぐるりと取り囲む“ツタ”だろう。1924年の球場の設立から植栽が始まったツタの壁は、2006年の球場リニューアルに伴い伐採されたのち、2009年に再度植栽がスタートした。そんなツタの管理を行なっているのが阪神園芸の緑地管理部だ。
「実はツタは繊細な植物で、夏場の水の管理が重要なんです。タンク車とホースを使って人力で水やりをしながら、鳥などに茎を千切られていないか、虫がついていないか、窓や電気機器にツタが絡んでいないか、なども注意深く点検しています」。そう話してくれたのは緑地管理部の松本匡司さんだ。
植えたら終わりではない。日々のメンテナンス・灌水に加え、夏場は台風などの災害対策も仕事の一つ。また、幹が大きくなってくると自重を支えられずに落ちてしまうため、それらを固定する作業も行う。球場1周でツタは300株以上。それぞれの状態に合わせた手入れは、想像するだけで気が遠くなりそうだ。
「阪神甲子園球場は地域のシンボル。この場所でツタの管理の仕事ができることは、とても特別なことで誇りに思っています。リニューアルから10年経って、ようやく30〜40%程度がツタで覆われたくらい。元の状態に戻るのはまだ20〜30年先になりそうですが、その時まで担当者として取り組んでいけたらなと思っています」。そう話す松本さんの後ろで、ツタの葉が嬉しそうに風に揺れていた。